第一回特別対談 赤松利市(小説家)×松浦祐也(俳優)

松浦 よろしくお願いします。

赤松 よろしくお願いします。

松浦 今日はありがとうございます。 

赤松 わたしね、『岬の兄妹』は何年かぶりに見た映画なんですけど。ここ二十年ぐらいで見た映画は『シンゴジラ』だけなんですよ。 

松浦 『シンゴジラ』見られたんですか。 

赤松 ちょっと職場で話題になったもんで。それ以来見てなかったん。で、知り合いに言われて、面白いゆうんで。ほんでねえ、感激しましたね。わたしもあの、テーマは底辺の人間、あるいはマイノリティの本書いてるんですけど、映画となると迫力が違うね。あっこまでなかなか文筆では踏み込めないですよ。

松浦 もともと、現代美術をやってる青柳龍太さんという作家がいて。先輩なんですけど。飲みに行ったときに「最近面白い本読んだ?」って話をしたら、「『鯖』読んですげー面白かった」って青柳さんが仰っていて。青柳さん、人をあまり褒めることがない人なんで、珍しいな~と思って気になって、次の日にすぐ本屋で買って。で、もう読み始めたら止まんなくなっちゃって。そんとき僕、日雇いで。今ももちろんやってるんですけど、移動中の電車の中でも読みたくて、しまいには休憩時間も。ちょっと読み止めるのがもったいなくて、一気に読んでしまって。僕、本屋の倅なんで、本は昔から好きで読んでたんですけど、ここまでのめり込んだのは本当に久しぶりで。一気にはまってしまって、『鯖』から『らんちう』を読ませていただいて、その次が『藻屑蟹』 読んで『純子』読んで、『ボダ子』っていう順番で読んでいて。

赤松 『ボダ子』きつかったでしょ。 

松浦 いやもうほんと、読んでてきつくなっちゃって。ただもう、読む手を止められなくて。ほぼ全部の作品そうなんですけど、特に『ボダ子』はきつかったですね。ただ、読んでていちばん自分と環境が近くてのめり込んだのは、やっぱり『藻屑蟹』だったんですよ。主人公の年齢とも近かったですし。

赤松 一番ね、『岬の兄妹』に近いのは『ボダ子』なんですよ。

松浦 『ボダ子』で、お父さんが娘の性行為を見てしまうシーンがあるじゃないですか。あそこは一旦ブレイク入れないとそれ以上読めなくて。ま~しんどかったですね。 

赤松 『ボダ子』出たんが四月なんで、次、七月予定だったんを、ちょっとごめんなさいと、九月に回してくれ、と。『ボダ子』はわたしもへとへとやったんで、書いてて。せやから、次はさわやかな物語書きたいと、やからごめん、と、で出したのが『純子』なんですよ、これが評判悪くてね。

松浦 そうなんですか!笑

赤松 めちゃ悪いよ。

松浦 それは出版関係の方から?

赤松 いやいや読者の方から。最後まで読めなかったとか。レビューなんかもっとすごいよ、きっぱりしてるよ、「帯見てやめた」とか。そんなんいちいちレビューに書かんでええから!笑

「持たざる者」の視点

松浦 本当に赤松さんは、「持たざる者」の視点というのをずっと書かれているなあと思ってて。俺はやっぱそういうのがすごく好きで。例えば『藻屑蟹』で、金を持った途端に自分が歩いてる足音が金の音に聞こえるっていう描写があったんですけど、あれ、まさに俺、金に困ってる時に自分の足音が金の音に聞こえたって体験をしていて、うわ~って思ったんですよ。本当に金がない人間って、こういう経験してると思うし、それってなかなか想像だけでは描けないものだよなあって思ってて。労働の描写ひとつとっても。俺、小説読んでてロングスパンが出てきたのって、赤松さんが初めてじゃないかと思って。ロングスパンって建築やってる人間は、知ってるけど。建築現場でエレベーターが出来る前に外付けでデカいエレベーターをつけるんだけど、それが小説で出てきたっていうのが衝撃でした。

赤松 本当に被災地でやってたんで。 

松浦 そうじゃないと書けないですよね。具体的にどんな作業されてたんですか? 

赤松 ユンボのまわりをうろうろしてる。

松浦 土木系の仕事ですね。 

赤松 そうですね、建築系ではなかったですね。あと除染作業員のときは職長で行って、作業員集めるんも自分で集めろっていう。宮城と山形の県境のところに、「除染作業員いりませんか?」ゆう会社があるんですよ、そこ行ったりね。資本金五十万やってね、元除染作業員が社長。応募してきた人間は全部囲い込んでるんですね。自分ところで小部屋作って。そっから十人作業員もらって、除染現場乗り込んで。 

松浦 仕事はすんなり取れる状況だったんですか? 

赤松 そうですね、結構。もともと土木の営業で入ったんでね。でも営業の話は全然で。
現場の仕事が切れるときに営業の話がくるぐらいで。『ボダ子』に書いた通りです。

年収二千万からホームレス

松浦 今日、一番赤松さんにお聞きしたいなと思っていたのが、金のことで。各作品、基本的に金で転ぶ人間を書かれてるじゃないですか。それってやっぱり真理だと思うんですよ。人間てやっぱりそんなもんだと思うし、俺も大金を手にしたら崩れていく人間だなと思うし。大概の人間ってそうだなと思うんですよ。

赤松 自分がそうやったんで。会社経営してるときは、年収二千万ゆうてますけど、二千四百万 は超えてましたね、それプラス経費使えますんで、だから飲み代一晩百万は平気で。赤坂の白人ポールダンスのお店行って、そこの女の子五、六人連れて、高級焼肉店行く前にハプニングバー行って、みんながざわつくのを上から目線で見て、ほな焼き肉行こか、という嫌な奴やったわけですよ。

松浦 なかなか出来ない遊びですよね。 

赤松 ほんま嫌な奴やった。それが一気に会社潰れてしもうて、そっから土木作業員ですわ。

松浦 身体ひとつで働いていこうってのは、昔からあったんですか? 

赤松 ゴルフ場のコース管理やってたんで、コース見て回るんで、一回十キロぐらいですね、それを週に五日やってましたんで。体力は自信あったし。 

松浦 でも経営の方やられてて、肉体労働の方にまわるってのは、なかなか勇気のいることだと思うんですよ。 

赤松 他に選択肢なかってん。除染作業員やって、結局ね、十人のうち二人が前科持ちで、一人が元シャブ中でしょっちゅうフラッシュバック起こして、現場はなかなか回らへん。で、会社からはやいやいゆうてこられて、勝手に給料は減らされる。それで東京に逃げたんです。で、東京でホームレスはじめて。ホームレスのときは風俗の呼び込みとかようやりましたけど。まあアパート借りるほどのことやなかったんで、漫喫で寝泊まり、季節のええときは隅田公園で寝泊まりしながら。あんとき悪意を覚えたですね。今のベンチってこう、横になれないようになってるんですね。波打ったりなんか。ベンチで横になろう思ってもなれないんですね。で、まあ隅田公園に草むらがあるんですけど、草むらにおばあちゃんおって、おばあちゃんに缶コーヒー、あの辺行くとね、自販機の缶コーヒー六十円とか七十円であるんですね。缶コーヒーを一本差し入れして、ちょっと横で寝さしてと。そこまでやで。

松浦 それ以上はなく。笑 

赤松 それでまあ、一年ぐらいやってて、このまま人生終わるんかなとか思ってて、そんなときに、ほな、小説書いてみようかと。書いたんがたまたま受賞して。

 兼業・専業

松浦 『藻屑蟹』の文庫版を読んだときに、色々考えることはあったんですけど、何よりもあとがきで、赤松さんが「たとえ将来、路上に帰らざるを得ないほど困窮しても、日銭仕事に執筆の時間を犠牲にするくらいなら、わたしは、何の躊躇もなく路上に帰ります。」と書かれていたじゃないですか。「その覚悟を受賞の言葉としたい。」と。あれに俺すげー胸を打たれてしまって。あ~俺まだまだだな、と。俳優だけでは食えないからバイトやってるんですけど、なんていうんだろうな、自分で決めなきゃいけないタイミングって絶対あると思うし、なんかもうすげー俺はその言葉に感化されて。

赤松 受賞して版元に挨拶行く、まずはじめにいわれるんが、仕事辞めたらあかんで、っていう、まずは兼業ではじめようって。ゆうたってねえ、兼業もなにも、そんとき日雇いでアルバイトしかしてなかったんで、いやもう専業で行きますわ、と。当時もう六十一歳やし。もう何年書けるかわからへんから。もうよろしいわ、生活のことは、と。あとまだ十歳二十歳若かったらわたしも思えんかったかもわからん。あとはもう、西村賢太さんやないけど「どうで死ぬ身のひと踊り」です。

松浦 そっからはもう、バイトとか仕事はせずに作家業一本で。今年だけで赤松さん、何冊出されてるんですか?

赤松 『藻屑蟹』の文庫、『ボダ子』、『純子』、『犬』、四冊ですね。明日締め切りなんがあって、五冊。

松浦 それ全部書き下ろしで。俺はちょっと想像出来ない。いやすごいですね。 

赤松 実際は、二ケ月に一冊出そうと思えば出せるんですけどね。長編一本書くんに一ケ月あったら十分なんで。 

松浦 一ケ月!

意識している作家

松浦 今回読み返して思ったのが、作家の方って、自分の文体を確立していくために、自分のスタイルを作って書いていかれる方が多い中で、赤松さんは毎回スタイルが変わってるなっていう。それって意識されて書かれてるんですか?

赤松 その作品に合うような作家を意識してます。例えば、『藻屑蟹』のときは、中村文則さん。文体は似てると思います。句読点の打ち方なんかは中村さんの影響受けてると思います。『鯖』んときは、西村寿行さん。『風紋の街』。次なんやったっけ?『らんちう』は形からして、湊かなえさんの『告白』。

松浦 あー。

赤松 ちょっときついんが、『らんちう』はみんなミステリーや思うて読んだみたいやね。違うっちゅうねん。あれおまえらをせせら笑ってるんやとゆう。あれはもう、すごい不愉快やったてゆうんが正しいねん。今の、就職氷河期の君らをバカにしてるの、と。それが「ミステリーにしては、」って。違うっちゅうねん。

松浦 『ボダ子』はどんな方を意識して書かれたんですか。 

赤松 『ボダ子』は完全に自分ですね。私小説やもん。ほんとはね、終章なかったんですよ。わたしそれ嫌やったんで、終章書かしてくれ、と。あっこで終章書いて、「私」と書いて、点打ったんですね。それまでは大西浩平やったんが、いきなり「私」なったんですね。あれでたぶん、ぞっとした人おったと思うねん。

「ミヒャエル・エンデ『モモ』は一番好き!」(赤松)

松浦 赤松さん、色んな影響受けられたと思うんですけど、ツイッターで、車谷長吉さんのこと書かれてるじゃないですか。他はどんな方から影響受けられました?

赤松 いっぱいいますけどね。コンプリートしてるんは、太宰治と、三島由紀夫と、川端康成と、谷崎潤一郎。この4人は高校一年までに文庫本はコンプリートしましたね。で、高校二年のときに、西村寿行さん、たぶん四十冊くらいと思いますけど、コンプリートしました。車谷さんは、好きなんです、今ね。他は別に好きゆうのはないです。

松浦 純粋に好きなのは車谷さんだけっていう。

赤松 ですねえ。

松浦 こないだミヒャエル・エンデの『モモ』のことを書かれてましたけど。 

赤松 『モモ』は一番好き!あれは二十歳のときに読んだん。四十年前。そっから旅先とかで、単行本の方ね、たぶん三十回は買ってます。まさに今の日本ですやん、時間泥棒ゆうて。 

松浦 僕、本を読み始めるきっかけが、小学生のときに読書感想文で、何読もうかな~と思ったときにおふくろに、井上靖さんの『しろばんば』を勧められたんですよ。きちんと小説読んだのは『しろばんば』からで。すごく面白くて。それから『夏草冬濤』『北の海』3部作読んで、なんかあるかな~と思ったときに勧められたのがミヒャエル・エンデだったんですよ。それを赤松さんのつぶやきを見たときに思い出して。そうだそうだと思って。大先輩だけど、こういうの読んでるんだ、俺も読んでるっていうのがうれしくて。

赤松 振り返ってみれば。会社経営してるときに、百二十五人の社員使ってやってたんが、単に時間泥棒の所業だったんですよ。わたしそれやって稼いだ金で、アホやってたわけですよ。二十年近く。自分が逆にそっちの立場なったら、わかるようなって。

天才と紙一重の親父

松浦 なかなか、どっちの立場も経験されてる方ってまあいないと思うんです。しかも物書きで。

赤松 してよかった思いますけどね。したくてしたわけやないですけど。

松浦 もし事業がうまくいったままだったら、小説は書いてなかったですか?

赤松 まあアホのままやったでしょうねえ。『ボダ子』にも書いてましたけど、事業がつぶれる前にいっぺんわたし新人賞取ってるんです。それで本も出てるんですよ。でも今見たら糞みたいな本ですけどね。全然売れんで廃版なって、裁断されて。 

松浦 えー!それは違う名義で?

赤松 それは本名やって。

松浦 そっか。そういう素地は昔から持たれてたんですね。 

赤松 あれかて締め切りの十日くらい前から書き始めて出したら大賞ポーン。 

松浦 天才ですね。 

赤松 違うと思う。今あれやで、厚生省の過労死ラインが、時間外八十時間ですよね。時間内百七十時間弱ですけど。だから二百五十時間弱ですわ。でも今たぶん漫喫で書いてる時間が月間で三百時間超えてますね。天才はここまでせえへん。 

松浦 でも三百時間も机に向かうっていうのが、まず出来ないと思う。 

赤松 それは親父見てるんで。うちの親父は完全にあれですわ。天才と紙一重ゆうぐらいの天才ですわ。集中力半端やない。

松浦 お仕事は何されてたんですか? 

赤松 植物病理学者です。で、自分の論理の研究成果を英文で論文書くのに、家でこたつで一ケ月座ったまま、その間動かず。こたつで寝てこたつで食事して動かず。排泄もこたつで。

松浦 えー! 

赤松 お母さんが処理してました。それが出来上がって、大学に持って行ったときに、大学の正門で、長いことこたつに座ってたんで、腰の骨が折れて。そのまま入院と。あれから見たらわたしなんかまだアマチュア。 

松浦 ちょっとそれほんと、紙一重ですよね。すごいっすね。 

赤松 その論文が学会出て、要は今のバイオテクノロジーの基本を作った論文です。その立証を、当時のアメリカと日本とドイツが争ってたんですね。で、アメリカが怒った。「そんなプレハブみたいなとこで実験しよって、こんなん信用出来へん!」と、「もっぺんうち来ておんなじ実験やれ」と。ゆうことで、わたしが十歳のときに家族全員でアメリカ呼ばれて、とゆうことで帰国子女です。

松浦 え~!そうなんですね! 

赤松 見えへんと思いますけど、英語はネイティブです。最後バス会社に勤めたんも、半分は外国のお客さんなんで。まあ当時六十一歳で、採用の方も、「いや~」っていうんで、英語出来ます!と。「じゃこれ、目通してみて、バスの出発の案内。ほなこれ読んでみて」と。そしたらわたし、見ずにパーっとゆうたったらむこう驚いて。

松浦 はーっ。笑 

労働遍歴

松浦 そこから赤松さんは普通に大学に行って、卒業して。 

赤松 卒業して、当時サラ金ゆわれてた、大手消費者金融に勤めて。もうね、わたしは百貨店に内定してたんですよ。それがね、消費者金融のオーナーが親父の大学の先輩で、親父に「うちも新卒採用はじめたんで、お前とこの息子預けんか」と。ほたら親父が「どうぞ!」と。わたしはほんま嫌でしゃあない。ほんで、当時行きつけのカウンターバーがあって、愚痴ってたわけですよ。「親父にゆわれて消費者金融や」て。ほんなら、まわりに囲まれて、「アホか! 成長産業やないか!」と。「しかもコネやぞ。役員間違いなしや」と。ゆわれて行きまして。そこで、でも最初はやっぱりゆるい店に入れられて。嫌で、贔屓されてるみたいやから。自分から、きつい店に行かしてくれとゆうて、岡山支店。地獄の岡山やゆうんで、岡山に転勤さしてもらって、そっからは『ボダ子』にも書きましたっけ。そのあと支店長経験して、営業企画本部入って、上場準備委員会でマニュアル書く。で六カ月家にも帰らんと、朝の四時まで仕事して、そっから東京温泉にタクシーで行って仮眠して、九時までに帰って、また次の日の朝四時まで。五人のチームやって、まあ当時は胃潰瘍ゆうのは病気じゃなかったんで。最後マニュアル出来上がった時には全員入院させましたね。最後の一人は精神病院でしたね。夜中にわたしがワープロ打ってたら後ろからカッターナイフの刃抜いて襲いかかってきて。「おまえさえおらんかったら」ゆうんでね。

松浦 今だから笑っちゃうけど、笑える話じゃないですよね。

赤松 大丈夫大丈夫。

松浦 赤松さんすげえな!笑  

赤松 それで、燃え尽き症候群。釣りが好きやったんで、里帰りに香川県戻って、いつも釣りやってたところ行ったら、ちょうどゴルフ場があって、緑の芝生と青い空と白い雲、自分は何をやってるんやろうと思って、その旅行から帰って辞表出して。そっから二、三年あって、バブルのあぶく景気の最後掴んで、あまりに収入が多すぎるんで、しゃあなしに会社作って。会社作るちょっと前は年収一億あったもん。それ個人でもろてたんやもん。すぐ会社作ったわ、もう。

松浦 マニュアル作ってちょっと休んで、俺何やってるんだろうって考えるまでは、一切そういうこと思わなかったんですか?

赤松 思いましたよ。ゴルフ場見て、当時まだ自分は二十九歳やったけど、もうこれから死ぬまでゴルフ場の芝生刈ってそうやって人生送ろうと思って、ゴルフ場に入ったわけですよ。ほんでゴルフ場にいるうちに、なんかね、作業とか非効率的なん、当時の言葉で言えば、定性的なんですよね、それをね、もっと定量化できると、数字で表現出来ると。そのマニュアル作ってビジネス特許取って、それ持って東京帰ってしもうたんよね。アホやろ。また地獄見に帰ったわけやね。

松浦 金はあるわけじゃないですか。なんでそこでほっぽり出して、ね。 

赤松 そのとき、消費者金融の退職金百万があったんですよ。その百万持って、東京でアパート借りて生活しながら、ゼネコンに売り込みに行って。ビジネス特許。三ケ月ぐらい見向きもされへん。最後の方、夜中に飲み屋の外に出してるビール瓶に残ってるん啜って、あと当時バナナがひと房六十二円やってね、六本入ってる。一日一本と決めて一週間。それから醤油が少年マガジンにこぼれて、乾いてるんをなんとなく見て、これイケそうと思ってしがんでみたら、これイケるやんと。そんな生活ですね。で、どこに行くにも歩いて。約束の時間の五時間前に出て歩くとか。売り込みに行って、ほんでやっと年末に、大手建設会社の環境部長が面白いと。これ買うわ、とゆうてくれて。「なんぼや?」と。値段わからんのでつけてください、と。「ほな自分の裁量でつけるわ」と。振り込みの日に、当時カードなかったんで、通帳持って、朝からずっとこう、記帳、何回も入れて、昼過ぎにやっと「ジィッ」と来て、おお!見たら、六十一万八千円。当時消費税三%やったから、六十万くれたんやね。わ~思って、とりあえずお金入ったら牛丼食べよ思ってたんで、五百円の引き出しの紙を書いて、ほんならカウンター呼ばれて、後ろの方から偉そうな人が来て、「定期預金どうですか?」ゆうねん。いや、定期なんてとんでもない。今日明日の生活がやっとで、ゆうたら「ご本人様ですか?」て。「ちょっと通帳の残高確認してください」て。六百十八万やってん。 

松浦 おおお!

赤松 ちょっと待ってください、電話貸してください、ゆうて、建設会社に電話して部長さん呼んでもうて、六百万入ってますけど、って。「ごめんな、本来やったら一千万円ものや。でも今回自分の決算出来る範囲内やったもんでここに抑えたんや。次からはちゃんと払うから」と。その日はもう、牛丼特盛や。それ以上のアイデアは浮かばない。そっから快進撃はじまって、二年後くらいには一億でした。

松浦 まさに『ボダ子』に書かれてることですね。はー。 

赤松 そう思たらね、今はこんな。まあでも、楽なりましたけどね。作家なって、作家もうからんて聞きますけど、それでもアルバイトやってる頃思たら年収は四倍くらいにはなりましたね。もうちょっとあったらアホ出来るんですけどね。 

松浦 まだしたいですか、アホ。

赤松 もうしんどいわ。笑 

「一生、無一物でええと思てます」(赤松)

松浦 今は生活するに困らない程度のお金はあると思うんですけど、今後漫喫を出て、部屋借りて、とかはないんですか?

赤松 いっときそういうつもりあって、部屋見に行ったんですよ。なんかね、自分の内面に囁くもんがあって。「なんやお前いい気になってるの?」と。「漫喫出て書けると思うか?」て。昔のアホの体験が生きたわけですね。

松浦 車谷さんがよく書かれる言葉ですけど「業が深い」っていう、まさにそんな感じですよ。ほんとになんか、すげーなあ。

赤松 一生、無一物でええと思てます。書けたらうれしい。他には特に。注文レベルでは二年先の秋まであります。

松浦 死ねないじゃないですか。笑

喧嘩

松浦 赤松さんは編集さんと喧嘩したりはしないんですか?

赤松 喧嘩ゆうのは違うて、向こうが改稿ゆうてきますやん、ここをもっと書いてとか、こんな感じで書いてくれとか、絶対上行ったる!てゆう。「ここほんと大事なシーンだから、ここで一章使ってもいいから、原稿用紙二・三十枚使っていいから」ゆわれて、敢えて原稿用紙二枚で書いたり。ほしたら向こうから、「参りました、感動しました」と。勝ったわ、とゆう。そうゆう喧嘩はね。相手のゆうたこと以上のもん書こうとゆうのはありますね。

松浦 そうやって、てめえの仕事で返すってことですね。いやすげ~な~。なんかもう、俺、弟子になりたいです。赤松さん、若い衆で可愛がってる人間とかいるんですか? 

赤松 第二回大藪春彦新人賞取った女の子、彼女にゆってるんですよ、生き残るんが大変なんだから、と。早く出せ!と。次書け!と。次書いたらわたし編集者に見せるから、と。あ、明後日対談があるんです。叩きのめしたろうかなあと。笑

プレゼント交換

松浦 なんか俺おもしれえなって思うのが、一度てっぺん見てる人ってそうそういないと思うんですよ。そっからいちばん下まで堕ちてくる人って、まあいないじゃないですか。さらにそっから物を書く作業に入るっていう。稀有ですよね。小説を読んでて、銭金のことって俺はやっぱ一番大切だと思うし、小説読んでて素直に受け取れちゃうのは、そうやって上と下を経験されてるからだなと。その目線が違うんだろうなって思って。すげーな~。

赤松 銭金じゃねえという。

(ここで赤松さんが新刊『犬』を松浦さんにプレゼント) 

松浦 うわ~!ありがとうございます! 

赤松 テーマは、銭金じゃねえ、とゆう。 

松浦 楽しみ!俺も、ちょっとなんか、今日、おみやげです。DVDなんですけど、好きな映画でジャック・ベッケルの『穴』っていう映画と、あと『(秘)色情めす市場』。よろしかったら。 

赤松 (新刊を刺して)六十三歳のニューハーフが老後に怯えているとゆう、老後問題です。昔華やかだった頃の一千万の貯金が残っている。その貯金を日割りして何年生きていけるやろうとか考えながら生きてると。ゆうところに昔の男がやってきて、「FXやれへんか?」と。

松浦 まずいまずいまずい!爆笑

赤松 (帯を指さし)嬲り嬲られですよ。バイオレンスシーン満載です。

赤松利市プロフィール
1956年 香川県生まれ
関西大学文学部卒業。35歳で起業するも55歳で経営破綻。以後、職を転々とする。
土木作業員、除染作業員、風俗店呼込み、バス誘導員など。
62歳で大藪春彦新人賞を受賞し書き下ろし長編『鯖』でデビュー。
同書は未来屋書店大賞2位を獲得し、翌年の山本周五郎賞にノミネートされる。さらに六作目となる『犬』が大藪晴彦賞を受賞。三作目となる『ボダ子』が本年度の山本周五郎にノミネート。
その他の著書に『らんちう』『藻屑蟹』『純子』『女童』『アウターライズ』等がある。
最新刊は二月十七日発売の『隅田川心中』(双葉社)

松浦祐也プロフィール
1981年4月14日生まれ、埼玉県所沢市出身。ライオンズファン。いどあきお氏に憧れ、脚本家志望で映画界に入るが、騙されて制作部として現場で赤灯を振る。ややあって俳優・曽根晴美氏の付き人を経て、いつの間にか俳優となる。『押入れ』(03/城定秀夫監督)で映画デビュー。映画を中心にキャリアを積む。代表作に『マイ・バック・ページ』(11/山下敦弘監督)、『ローリング』(15/冨永昌敬監督)、『まんが島』(17/守屋文雄監督)、『岬の兄妹』(19/片山慎三監督) 、『さよならくちびる』(19/塩田明彦監督)などがある。猫5匹とメダカ、ミナミヌマエビと暮らす。