第十五回特別インタビュー 安齋 肇(イラストレーター とか)

CHIRATTO第十五回特別インタビューのゲストは、安齋肇さん。イラストレーター、アートディレクター、ミュージシャン、映画監督などさまざまな肩書きを持つ安齋さん。
山男を志した若かりし頃や、もはやお家芸といえる遅刻癖、そして30年近くタモリさんの横に座り続ける、ソラミミストとして思うことなどについてお聞きしました。

デザインの壁にぶつかり、目指した山。

── 安齋さんは、いろんな肩書きをお持ちですよね。

安齋肇(以下、安齋):何してるかわかんないっていうのは、一番大きいテーマかもしれない。一体何がやりたかったんだろうっていう、そこに尽きるでしょう。

── 最初になりたいと思ったのは?

安齋:桑沢デザイン研究所に行ってるときになりたいなと思ったのが、レコードジャケットのデザインをする人。70年代なんだけど、かっこいいレコードジャケットが次々と出てきて楽しそうだったから、そのデザインをしたかった。いろんなレコードのなかでも絵が描かれているジャケットが特に好きで、イラストレーターにもなりたかったんです。でも無知だったんで、レコードジャケットを作る人にはどうやったらなれるのかがまったくわからなかったし、知ろうと思っても有名な人の話しか入ってこないからさ。横尾忠則さんは、サンタナから直接頼まれてジャケットを作りました、なんて聞くと、ミュージシャンと知り合いじゃなきゃダメなの? って思うじゃないですか。一方で、レコード会社の社内で作られたようなひどいジャケットもいっぱい見てたから、レコード会社のデザイナーはダサいと思ってたんです。実際になったら、すごく楽しかったけど(笑)。

── デザイナーでイラストも描けるのは、強みですよね。

安齋:昔はみんなそうだったんですよ。「デザイナー」といえば、ほとんどがファッションデザインのほうを指していたし、イラストレーターって職業そのものがまだ確立していなかったんだよね。グラフィックデザインのなかに、イラストレーションが組み込まれているもんだとばかり思っていたし、絵を描ける人がグラフィックデザイナーをしてるのだと思ってた。実際、和田誠さんとか横尾忠則さんとか湯村輝彦さんとか、みんなデザインがめちゃくちゃ上手ですからね。そもそもグラフィックデザインをやらなきゃいけないっていうふうに追い込まれたのは、桑沢のときに付き合っていた子が、僕がぷらぷらしているのを恥ずかしがって、学校に募集が来ていたデザイン事務所を受けるように言ったからなんです。そしたらたまたま僕の知っている先輩がその事務所にいて、「本当だったら採らないんだけどね」と言って、採用してもらえたんです。そのくらい、レベル的には低かったの。それでも自分なりに一生懸命頑張ってみたんだけど、デザイナーって何なのか、だんだんよくわからなくなってきて。だって毎日、文字の角を90度にするか、89度にするか、91度にするかみたいなことを考えてるんだよ。あるいはその角R(※丸み)を3ミリにするか、5ミリにするかでずっと悩んだり。友だちとスナックに行っては、カウンターに乗ってカラオケをして、ストレスを発散するような日々だったんです。そんなときに、「安齋くん、もっと自然に癒やされたほうがいいよ」とある人に言われて、カナダに行ったの。完全にセラピー的な感じでね。

── カナダには、大自然がありますからね。

安齋:そうなんだけど、大自然を見たら余計にねじ曲がって、このままではいけない、自給自足をしている人のところで修行がしたいって思うようになって。紹介してもらったのが山小屋で、雪のシーズンに手伝いに来るように言われて、住み込みで行ったんです。本当なら一番の稼ぎ時なんだけど、その年はたまたま暖冬で全然雪が降らないわけ。お客さんもまったく来ないから、山小屋のオーナーが「僕はこれから出稼ぎに行ってくるから、安齋くん、留守番してて」って言うんです。1日700円くらいもらって、オーナーの奥さんと子どもと僕で、だんなのいない山小屋での生活が始まるんだけど、男の子2人は僕にめっちゃなついてくるし、やっておいてって言われた1年分の薪割りすぐに終わっちゃうし。はげ山をぼーっと見ながら、俺、何してんだろうなって思ってたら、レコード会社にいた同級生から「うちで募集してるから、すぐに戻ってこい」って連絡が来て。だけどこっちは、いつ雪が降って忙しくなるかわかんないから無理だって断ったんだけど、「おまえがレコードジャケットをやりたいって言うから、俺はレコード会社に勤めたのに、何言ってんだよ。すぐ降りてこい!」って向こうも折れないの。しかたがないから山小屋のオーナーに話したら、あっさりいいよって。そりゃそうだよね、毎日無駄に700円払ってたわけだから。それで山を降りて、レコード会社に入ったんです。山男の生活は1週間もしてないんだけどね。

── 山男、意外と短かったですね(笑)。

安齋:情けないよねえ。もしあのとき雪が降ってめちゃめちゃ忙しかったら、その誘いを確実に断っていたと思うんだよね。そしたら僕は今もたぶん雪山にいて、自分で山小屋を建ててオーナーになってたんじゃないかなあ。

レコードの発売延期。その理由は……。

── レコード会社では、念願のジャケットデザインができたんですか?

安齋:入った途端忙しくて、レコードジャケットの仕事をすぐにもらいました。それで張り切ってプレゼンしたら、ディレクターに「こんな子どもだましなジャケット、冗談じゃねえ!」って頭ごなしに怒られて、いきなり担当を外されちゃったの。今思えば、こういうジャケットがやりたいなっていう憧れを、そのまま形にしようとしてたんだよね。あのとき叱ってもらえなかったら、その後も本気になってなかったかもしれない。実際、僕が作ったのは、すっごいダサかったから(笑)。『ノッキング・ダウン・ディスコ』っていうディスコのオムニバスだったんだけど、ユーロビートの原型みたいなやつで、そのディレクターが言うには、心拍数のように音が鳴って、ボクシングのノックダウンみたいに倒れてしまいそうな硬派なイメージなんだって。それで僕はケーキをリングに見立てて、その上にボクサーの人形を2体置いて、片方がケーキの中に埋もれちゃってるジャケットを作ったんです。

── かわいいじゃないですか。

安齋:だからダメでしょ! 夢見るデザイナーだから、ケーキもわざわざ作ってもらっちゃって、かっこ悪い。しかも社会のルールを知らないから、ディレクターの許可なしに勝手に進めてるんだもん。小道具代とか撮影代は誰が払うんだって、当然なるじゃないですか。怒られるのも当然だよね。だけどそこから、レコードジャケットはどうやって作られるのか一から勉強しようと思って、なんでもやらせてもらいましたよ。それこそアイドルから演歌から、企画モノだとドリフの『ヒゲのテーマ』とか、T・レックスの日本版とか。楽しかったけど、せっかくなら好きなミュージシャンのジャケットをやりたいからね。それでレコード会社を出てフリーになったんだけど、どうやって好きなミュージシャンと知り合って、その人のジャケットをやればいいのかが、やっぱりわからないわけ。そしたらフォトグラファーの伊島薫が、一緒に事務所をやらないかって声をかけてくれて。『宝島』の編集者だった関川誠や渡辺祐を連れてきて、デザインとかイラストの仕事をちょこちょことやらせてもらっているうちに、だんだん変な仕事が来るようになったんです。だから古い知り合いは『宝島』つながりの人が多いんだけど、バンドブームとかサブカルブームで『宝島』が爆発的に売れた時期と重なって、運が良かったんだよね。自分でも恵まれてるなって思うのは、好きな人の仕事をやりたくて始めたけど、どうしたらいいのかわからないままあれこれやっているうちに、気がついたら好きなことだけやっていたこと。本当に嫌な仕事は、1回しかやらない(笑)。

── それには何かコツがあるんでしょうか。やりたくない仕事はお断りする?

安齋:断ったりはしないけど、嫌なやつのときはケーキを使うかな。いや、嘘だよ(笑)。好きな仕事だと自然と一生懸命になっちゃうから、相手もやっぱりわかるんじゃないかな。自分で言うのも変ですけど、そういうときって異常だもん。単価とかもまったく計算できないから、ずっとその仕事ばかりしちゃうの。そうするときっと、締め切りの催促しに来た人も「こいつダメだ、うちの仕事をまだやってない」って思うんじゃない?

マネージャー:まさかとは思いますが、遅れる仕事は乗り気じゃないってことですか?

安齋:そうじゃないですよ! 一緒になって遅れていく。玉突き事故ですよ。今はもう、色校なんてあまりなくなちゃったけど、昔は好きな仕事の色校だと7回も取っちゃったりして。だから嫌われたもんですよ。レコード会社時代の話なんだけど、ドゥーワップブームっていうのが起きて、シャネルズとかザ・キング・トーンズが出てきたの。それで僕が大尊敬する湯村輝彦さんにお願いしたいものがやっと来たと思って、キングトーンズのジャケットの依頼をしたら、ものすごい喜んでくれて。湯村さんの熱気と相まって、僕もとことんやり出しちゃって、歌詞カードの文字も普通じゃつまらないから、大正時代の新聞みたいな活字感のあるものにしたくなっちゃったの。当時すでになくなっていたタイポグラフィっていう、活字を1個ずつ拾っていく活版印刷をまずしてもらって、文字が少し歪む感じがすごくいいんだけど、何度も何度もコピーを取って、字間と行間を詰めながらどんどん甘くしていったの。最初は自分でやっていたんだけど全然間に合わないから、その頃、僕のアシスタントをしていた奥さんにやってもらってね。英語の歌詞は、英字新聞から文字を切り取って、1文字ずつ組んでコピーしてっていうのを1週間くらいずっとやってたから、かわいそうだったよ(笑)。僕としてはなんかまだもの足りなくて、原稿を少しだけ斜めに配置したり、紙焼きした写真をちょっと歪ませたり、みたいなことをずっとやっていたら、レコードの発売が延びたんだよね。

── そんなことできちゃうんですか(笑)。

安齋:ディレクターが、「はじめ~! はじめ~!」って廊下の向こうですんごい怒ってんの。「おまえの出来上がったときが締め切りか!?」って(笑)。それくらい嬉しくて、張り切っちゃったんだよね。

レコードの回収騒ぎ。その理由は……。

── 自由すぎて羨ましいです。

安齋:これはまた別の話なんだけど、ビートルズの『ヘイ・ジュード』とドリフターズの『ラストダンスは私に』って曲のコード進行が一緒なんだって。だから『ラストダンスは私に』で『ヘイ・ジュード』が歌えるらしいの。それで大瀧詠一さんが『ラストダンスはヘイ・ジュード』って曲をプロデュースして、キングトーンズで出すことになって、また湯村さんにお願いに行ったんだ。「おお、いいねえ! ビートルズとドリフターズとキングトーンズのメンバーが一緒になって、ぐちゃぐちゃになってるやつね」って言うから、「はい、エッチしてるところとか絶対にやめてくださいよ」って念を押したんです。「わかってるよ、そのくらい」って言って上がってきたのが、みんなでお風呂に入ってる絵だった(笑)。今だったら絶対に出せないだろうなあ。湯村さんの絵っていろいろ崩してるのに、めちゃくちゃ似てるから。湯船に入ってる絵と、湯船から上がってる絵のふたつあって、湯船から上がってるほうは全裸でもろ見えるの。たとえば、ポールが股をタオルでゴシゴシやってるようなやつとか、絶対にダメじゃないですか。湯村さんは、「安齋くんなら、これを出してくれると思うんだよ。ロスの知り合いとかはさあ、今こういう絵が大好きなんだよね」なんて言うから、それとこれは話が別だしって思ったけど(笑)。結局、僕も口車に乗って面白がっちゃって、正規版とは別に有線(現・USEN)の人たちだけに配るやつがあったんだけど、そっちはめくるとお風呂から上がってる絵になるパターンにしたんです。これは絶対にいいプロモーションになるって、社内でもすごく喜ばれて、通常よりもたくさん有線に配ったの。そしたら有線のえらい人から電話がかかってきて、「何をしてくれるんだ」と。「うちの電話受付はほとんどが若い女の子なのに、こんなものが見せられるか!」って、すぐに営業の人が謝りに行って回収になって。「はじめ~! おまえは何してるんだ~!」って(笑)。

── また怒られてしまったんですね。

安齋:今思うと、レコード会社にいたときは楽しかったなあ。リスクがないからね。やっぱり会社にいるメリットってそこでしょ。フリーだったらやらないもん、そんな危ないこと(笑)。会社だったら、自分が謝りに行かなくても済むからね。とりあえず、始末書みたいなのは書かされたけどさ。謝ってるんだか、謝ってないんだかわからないような文章で、また怒られるし。湯村さんの素晴らしさを書いたら、「ラブレターじゃねえんだぞ」って。「これからはヘア解禁になる。もう夜明けはそこまで来ています」みたいなことを書いたりして。

── 全然反省していない(笑)。

安齋:そうなの。だから会社員のときはすごいことをやっていた人が、独立して自分の会社を興すとしょぼくなっちゃうのもわかる。しかも今は、個人を責めすぎる風潮があるから。個人より、もっと大きいところを責めてほしいよね。

一度きりのつもりだったソラミミスト。

── 『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」に出るようになったのは、どういう経緯からなのでしょう。

安齋:『宝島』で僕が連載を持つようになったんだよね。ダジャレばっかりの小さいコーナーなんだけど、当時の『タモリ倶楽部』で放送作家をしていた町山広美がそれを見て、音楽もちょっとわかってダジャレみたいなことが好きで、何よりも長髪で奇妙なやつだから、タモリさんと絶対に反りが合わないだろうってことで声がかかったんです。でもそんな嫌がらせみたいなことをしに行くのは嫌じゃないですか。タモリさんはダジャレが嫌いで、どういう理由か知りませんけど長髪とかも嫌いだし。だから断ったんだけど、打ち合わせに僕が2時間ほど遅刻することになりまして。

── 最初の打ち合わせということですか?

安齋:というか断るための打ち合わせ。遅刻していったら断れないじゃん。あれは大失敗だった。「2時間待たせて断れるんですか?」って言われたもん。「それじゃあ1回だけ」って渋々答えたら、「こっちだって大歓迎ですよ。こんなに遅れてくる人に続けてお願いなんてできないですから」ってきっぱり言われました(笑)。

── それなのに、2回目以降も出ることになったのは?

安齋:よくわかんないけどその頃は、ちょっと変わった人というか、普通に知られていない人をテレビに出すような流れがあったのかもしれない。ディレクターには、「場をうまく回せる人とか、面白いことを言える人はほかにいくらでもいるけど、ああいう変わった人が出てるから面白いんじゃないかってタモリさんが言ってるから、続けてみてください」って言われたんです。でも後々聞いたらタモリさんは「そんなこと言ってない」って言ってるんで、真偽のほどは確かではないんだけど。それで30年近くやってるんだから、世話ないけどね。

── すごいですよね。でも一度終了したことがあったそうですが。

安齋:そうそう。92年に始まって、95年に一旦終わってるんだよね。なんでかっていうと、テレビマンとして1コーナーを3年も続けてしまったことに、恥ずかしさを覚えたんですって。まあたしかに番組の企画っていうのは、どんどん入れ替わってなおかつ面白いことが特色になったりするじゃない? 実際、『タモリ倶楽部』も半年とか1年のサイクルでヒットする企画を次々と出していたんですよ。もともと僕なんて1回こっきりのはずだったし、タモリさんのことをいつも1時間とか2時間待たせて、本当に迷惑かけてたから忍びなかったんです。だったら遅刻しないでちゃんと行けってことなんだけど(笑)。それで終了することになってほっとして、花束もらって涙ぐんでお別れしたのに、2カ月もしないうちに「あのー、復活することになりました」って。「花もらったし、泣いちゃったし、恥ずかしいじゃん」って言ったら、「大丈夫ですよ、こっちも泣いてますから」って。

── 復活した理由は、それを望む声が多かったからですか?

安齋:もうね、すごかったんだって。「終了します」って番組で言ったあともずっとハガキが届き続けて、すごい量になっちゃって、さすがに再開しないといけないんじゃないかってことになったみたい。だから見てる人が復活させてくれたんだよね。タモリさんも言ってました、「このコーナーは私たちのためにやってるんじゃなくて、見ているあなたたちのためにやってるのだから、みなさんがちゃんと探すように」って(笑)。

どんなネタも笑ってしまうワケ。

── 昨年、コロナ禍でお休みしたときも、半年ほどで1万通のネタが集まったそうですね。

安齋:1万ってちょっと異常だよね。なんかわかんないけど、区議会議員とかに出馬したほうがいいんじゃないの、もう。

── 空耳党ですか?

安齋:誰も票を入れないね(笑)。でもみなさんに支えられているのは本当で、人民による人民のための空耳なんですよ。だってさあ、僕でもいいっていうのは、誰でもいいってことなわけだから、すごいですよこれは。あるときから、遅刻も待ってくれなくなりましたからね。それで見事にゲストの人とかがやってましたから。なかなかうまかったですよ、みんな。

── 安齋さんが途中で登場することもありますよね。

安齋:「続けてください」って言いながらね。またさあ、タモリさんの横で見てると面白さが違うんだよね。タモリさんの反応が、ほんとシビアだから(笑)。通常だと、ディレクターが3本選んだネタをADが映像にして、それをタモリさんが評価するわけです。たくさんのなかから選ばれた3本だから、それなりに面白いはずなんだけど、タモリさん、微動だにしないときあるでしょ。「うん、手ぬぐい」ってすぐに言ったりとか(笑)。ときには「これで終わり」ってタモリさんが言いかけたら、「いや、まだ1本あります!」ってスタッフが慌てて言ったりして。タモリさんが動かないときの、場内の落ち込みようったらないんですよ。担当したADも、そのネタを選んだディレクターももちろんがっかりしてるし、スタッフが出演していたりするから、自分の演技がダメだったんじゃないかって落ち込むカメラマンもいて、場がしーんと静まり返るんだよね。「さあ、声出していこう!」ってディレクターがよく言ってますから(笑)。

── タモリさんが動かないようなときでも、安齋さんは安定して笑ってますよね。

安齋:僕はゲラなのかもしれないけれども、タモリさんが動かないっていう気配だけで、すっげーおかしくなってくるんだよね。もうね、反省会の様子まで浮かんでくるから。「だから言っただろ、あれくらいじゃタモリさんは笑えないんだよ!」みたいなことを言われるんですよ、きっと。しかも、今のテレビ業界はスタッフもみんな高学歴でしょ。東大出なんてざらですからね。そんな人たちがさ、パンツの脱ぎ方で笑えなかったとか、勃起表現がうまくいかなかったとか、そんなことで頭抱えるわけじゃん。そういうことを想像すると、おかしくってさ。バカなことしてるなあ、幸せだなあって思うんだよね。しかも空耳って、ある意味では法に触れてるわけですから。

── え、どういうことですか?

安齋:だって表現者の本来の意図とはまったく違う解釈をして、みんなで笑ってるわけですよ。真面目に作った、ときには政治的な歌とかを、セックスの話にしたり、オヤジが出てきて池に落ちたり、入れ歯が取れたりする内容にしちゃうんだから。それなのに、平和だよね。日本語を理解できるっていうだけで楽しめる、まれな番組であるにもかかわらず、何の役にも立たない。日本語に聞こえたからといって、これっぽっちの知性の足しにもならない。そんなことをやっているこの平和な日本が、僕は本当に好きだなあ。だから早く復活して、ワイワイできるようになるといいですね。こないだ復活したときだって、1万通のネタが届いたわりには、紹介できたのって本当に一握りだからね(笑)。

今はじっくり絵を描いて、人生を潤わせる時期なのかな。

── コロナ禍が続きますが、最近はどんなふうに過ごしていますか?

安齋:仕事自体は、僕自身の高齢化の問題もあるだろうからそんなに忙しくないんだけど、これくらいが今はちょうどいいかな。じっくり絵を描いてみるとか、部屋を片付けてみるとか、昔から考えていたことができるようになるかもしれないから、そういうことでちょっと人生を潤わせる時期なのかもしれないね。

── 昨年は、『えとえのえほん展』を大々的に開催されていましたね。

安齋:そう、展覧会をやったんだけど密になっちゃいけないから、呼ぶほうも呼ばれるほうも遠慮しちゃうんだよね。そんななかでも、たくさんの人が来てくれたのは嬉しいことですよ。だけど今は、打ち上げができないのが何よりも寂しい。いろんな人が手伝ってくれるから、僕は打ち上げに行く気満々なのに、みんなスーッと帰っちゃって、残ったオッサンふたりだけで深酒、みたいな(笑)。でもこの時期を乗り越えたら、何かあるのかな。ここまで冷え切っちゃった人の心が戻るのかなっていう、怖さもあるよね。SMAPが再結成でもすりゃあ、一発で解消するのかもしれないけど(笑)。

── そういうことなら、ぜひ再結成してほしいです。

安齋:10年前の東北の地震のときも、自分が生きている間に世の中がパニックになるようなことが起こるなんて想像してなかったけど、今回また想像できないことが起こっているからね。雑な言い方だけど、人はどんどん強くなるんじゃないのかな。とにかく生きていることが一番ですよ。命あっての物種って、おじいちゃんおばあちゃんは言ってたけど、本当にそう……。いやあ、案の定、渋い話になっちゃったね。空耳は誰がやってもいいんだよ、みたいなことを言いながら、結局この人すごく好きなんじゃん、みたいな感じになっちゃったのも、ちょっと恥ずかしいなあ。

■プロフィール
安齋 肇(あんざい・はじめ)

1953年東京都生まれ。東京150年記念「カッパバッジ」やJAL「リゾッチャ」のキャラクターデザイン、NHKしあわせニュースのタイトル画を手がける。また、ユニコーンやグループ魂などのツアーパンフレット、藤井尚之のアルバムジャケットのアートディレクションを担当。作品集「work anzai」、ドローイング集「draw anzai」出版。テレビ朝日系「タモリ倶楽部」空耳アワー、NHK BSプレミアム「笑う洋楽展」などの出演。2020年、しもだて美術館にて個展開催。2021年、NHK Eテレ「プチプチアニメお正月スペシャル えとえとせとら」キャラクターデザイン。原作絵本を手がけたEテレ「わしも」ではハジメさん役として声の出演。ナレーションなど積極的に活動している。