小説家入門 第一回

小説家入門

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出版不況、活字離れ、本が売れない。もう聞き飽きました。それなのに小説家になりたい人が、どうやらたくさんいるようです。受賞後、即デビューに繋がる公募型の文芸新人賞だけでも四十近くあります。これらの他にもライトノベル系の公募型新人賞もいくつかあるようです。小説家デビューとしては、この辺りを狙うのが順当でしょう。
 他にも地方自治体が主催する文学賞もあります。多すぎて調べる気にもなりませんし、ここから小説家デビューというのは、かなり難しいのではないでしょうか。可能性がゼロとは決して申しませんが。

公募型の文学賞以外にも小説家への門戸は開かれています。「なろう系」とか呼ばれる小説投稿サイトです。代表的なものだけでも八つのサイトがあるようです。私自身が吟味した情報ではありません。「なろう系」に作品をアップロードしている人のブログを参考にしました。ちなみに「なろう系」というのは投稿サイトの元祖ともいえる『小説家になろう』から派生した業界用語のようです。どんな業界かは分かりませんが。

これ以外にも、同人誌もあるみたいです。同人誌と言えば、白樺派とかそんなのをイメージしてしまう六十三歳の私ですが、もう少し緩やかで、主な活動場所は「文フリ」と呼ばれる場所らしいです。自分たちで製本装丁までした本を、手渡しで直接読者に売るようです。「文フリ」とは、文芸フリーマーケットの略称でしょうか。
 人気がある作者の作品は五百冊、千冊と売れるらしいですけど、所詮商業出版の規模に及ぶものではございません。ただこれだって侮れません。現にベストセラーになった『夫のちんぽが入らない』は「文フリ」が始点なのです。ただしそれはかなり稀有なケースと言えるでしょう。

私の場合は至極まっとうな手順で、徳間書店さんが募集した第一回大藪春彦新人賞を受賞してデビューしました。面白みがなくてすみません。

当時事情があって路上生活者であった私は、還暦を超えて「このままでは終わりたくない!」正確に言えば「このままで終わるのはなんだかなぁ」というくらいの気持ちで、小説を書こうと思い付いたのでございます。ただし路上生活者という生活環境で長編を書くのは難しゅうございます。そこで、ちょっと小銭があるときに避難場所としていた漫画喫茶で、公募型文芸賞を短編に絞り込んで検索しました。ございました。規定枚数八十枚以内という、手頃な量の大藪春彦新人賞を見つけたのです。しかも締め切りが一週間後というのもお手頃でした。ほとんどの公募型文芸賞は一年に一度しか公募しておりません。しかし私は既にその時点で、還暦を超えていたのでございます。応募の締め切りより人生の締め切りが気になります。
 カテゴリーが「エンターテインメント小説」というのも良うございました。ざっくりしてて良かったです。それで、一週間後の締め切り目指して八十枚書いちゃいました。消印有効でした。締切日の深夜に、浅草の隣の田原町郵便局が総合郵便局で、深夜も受け付けてくれているので、そこから応募しました。

結果がすぐに出るものではございません。どんな公募型文芸賞でも同じでしょうが、募集の締め切りから結果が出るまで、半年以上かかるのは当たり前でございます。その間に、一次通過者、二次通過者などと段階的に発表される新人賞もございます。しかし大藪春彦新人賞の場合は第一回目ですので、その辺りの段取りがどうなっているのか、過去実績がございませんので、とんと分かりません。

当時私は、上野仲町通りのおっパブで客引きをしていました。ディープキッスと下半身以外のおさわりが売りの店です。ライト系の風俗店でございます。フィニッシュはありません。生殺し系でございます。

早番シフトの私は十時から二十時までの勤務で、店の看板の横に立ち「おっぱい、いかがですか?」などと、日がな一日、通行人に声を掛けていたのでございます。昼休みのない十時間勤務ですので、時給千円で一日働くと一万円です。何より助かるのは、日払いで賃金が貰えるということです。仕事のある日はその一万円で、食事をして漫画喫茶に泊まっておりました。
 そのおっパブに、年下の先輩社員の苛めでいられなくなりました。どんな苛めがあったのか、その話は別で書いちゃいましたので、割愛させていただきますが、私が辞めてから三ヶ月もしないうちに、そのおっパブは、警察の手入れにあって閉店に追い込まれてしまいました。ザマアミロでございます。

それからアルバイトを転々とし、いくつ目かの仕事でバスの誘導員をしていた時でした。八月の終わりです。なんせ暑い日でした。八重洲駅前の、今は取り壊されたヤンマービル前でバス誘導をしていた時、版元さんから最終選考に残りましたという連絡が来たのです。私、確信しましたね。「新人賞は貰った」と。
 実のところ私は、選考どうこうよりも、それ以前に、編集部に落とされるのではないかと懸念していたのでございます。

応募原稿には規定の応募用紙を添付します。そこに記載した年齢は応募時の六十一歳です。ちょっと新人という年齢ではございません。さらに正直者の私は、住所を『不定』と書いてしまいました。『路上』か『不定』の二択で迷って、どちらかといえば穏便そうな『不定』にしたのでございます。それにしても住所不定の六十一歳って、どーなんでしょ。読む前に弾かれるかも知れないと、私が懸念したのもご理解いただけるのではないでしょうか。実際に受賞後に聞いた話では「この応募者、もう生きてないかもしれないな」などと、私が心配する以上の心配を編集部内ではしていたようでございます。

繰り返しになりますが、最終選考に残った段階で、私はほぼ受賞だと思いました。それまでも人一倍読書はしておりましたから、応募作は既存の書籍と比べても遜色ないという自信がございました。ただし八十枚では一冊の本になりません。さっそく続編の執筆に掛かりました。せめて三百枚は超えないとダメです。近くの書店で文庫本の文字数を数えて、そう判断したのでございます。

さらに待つこと二ヵ月余り。忘れもしない平成二十九年十月二十六日のことです。最終選考に残ったという連絡を頂いたときに、最終選考の日にちを教えられていました。
「午後六時から選考会が開催される予定です。二時間もあれば結果が出ると思いますので、その時間には必ず携帯が通じる場所にいてください」
なんてことも言われていました。

私が連絡待ちに選んだのは蕎麦屋さんです。新蕎麦を売りにするような店ではありません。券売機のある蕎麦屋さんです。選考会が始まる時間と告げられた午後六時前に蕎麦屋に入り、そこでコロッケ蕎麦を注文して、さあ食べようかという時に携帯が振動したのです。店の時計はまだ六時前でした。五時五十六分くらいだったでしょうか。これから始まるのかと通話ボタンをタップしました。
「おめでとうございます」
いきなりです。
「受賞が決まりましたので、ご連絡させていただきました。これからの予定ですが……」

まあ受賞は、ほぼ確信していましたので、それほど驚きもしなかったのですが(この辺り、ひょっとしたら、今だから言えることかも知れません)、先ず考えたのがバス誘導員のアルバイトを辞めなくてはということでした。一応、私も社会人経験がありますから、今日言って明日辞めたのでは、アルバイトといえど、会社に迷惑がかかるというくらいの分別はございます。ですから退職日を十一月末とし、連絡の翌日、会社に辞意を伝えました。

(続く)
赤松利市

赤松利市

1956年 香川県生まれ
関西大学文学部卒業。35歳で起業するも55歳で経営破綻。以後、職を転々とする。
土木作業員、除染作業員、風俗店呼込み、バス誘導員など。
62歳で大藪春彦新人賞を受賞し書き下ろし長編『鯖』でデビュー。
同書は未来屋書店大賞2位を獲得し、翌年の山本周五郎賞にノミネートされる。さらに六作目となる『犬』が大藪晴彦賞を受賞。三作目となる『ボダ子』が本年度の山本周五郎にノミネート。
その他の著書に『らんちう』『藻屑蟹』『純子』『女童』『アウターライズ』等がある。
最新刊は二月十七日発売の『隅田川心中』(双葉社)