第十回特別インタビュー 蛭子能収(漫画家)

CHIRATTO第十回特別インタビューのゲストは漫画家の蛭子能収さん。
漫画家生活50年の蛭子さんに、漫画と向き合ってきた日々について、じっくりお聞きしました。

影響を受けた二人

— 子どもの頃から絵はお好きだったんですか?

蛭子能収(以下、蛭子) 好きでしたね。絵も好きだし、映画も好きだった。東京に来たらそういうものがいっぱいあるからと思って、東京に来たんですけど。いざ東京に来たら、やっぱり、すごい人がたくさんいましたね。

— 漫画は、いつからどんなきっかけで描き始められたんですか?

蛭子 『ガロ』っていう雑誌が昔あったんですけど、面白い漫画がいっぱい出てくるの。俺もこんなの描きたいな~と思って漫画を描いてた。だから、『ガロ』には、自分の方から漫画を売り込んだこともあって、お金は1円ももらえなかった。『ガロ』は出ないんですよ。原稿料が。

— それでもいいから描かせてくださいっていう感じだったんですね。それが何歳ぐらいのときですか?

蛭子 24、5歳かな。僕の元々の夢は映画監督なんですよ。映画を完成させるのに、どこの部署がいちばんいいのだろうかって考えると、やっぱり監督さんなのかなって。それで最初シナリオの専門学校に通いました。

— 映画がお好きだったんですね。蛭子さんの作品には、映画がモチーフのものがありますよね? 『ダウンバイロ―でこんにちは』ですとか。

蛭子 そういえばあったね~。

— 影響を受けた漫画家さんっていらっしゃるんですか?

蛭子 うん。漫画家だったらつげ義春さんで、デザイナーだったら横尾忠則さん。これが僕の中の二大芸術家。

— 蛭子さんの漫画は全部扉絵が素敵ですよね。細かいところまでデザインされているといいますか。

蛭子 そう言っていただけると嬉しいです。表紙を描くのが、すごく好きだったんです。物語を描いたあとだから、表紙を描くのは、すごくリラックスして描けるので。表紙を入れること自体も好きでしたね。

— グラフィックデザイナーにもなりたかったって仰ってましたが、デザインもお好きなんですね。

蛭子 すごく好きですね。

— 表紙が最後のオチのようになっている作品がありますよね?『普通の人々』という作品ですかね。最後のコマで「実はこのあと表紙のページへ続きます」となっていて。表紙が「終わったよ!」となっています。

蛭子 そうだっけ?(漫画を見て)あれ?ひっくり返ってエッチしてるね(笑)。すごいポーズだね。これは決して誰かを見て描いたわけではないですよ(笑)。

「昔の作品はほぼ夢なんですよ。」

— 蛭子さんの漫画は、どちらかというと庶民の、虐げられているサラリーマンだったり、豆腐の値段を気にしている主婦だったり、我慢しながら生きている人、抑圧されながら生きている人たちの、爆発! みたいな結末から、だいたい惨劇になっていくことが多いように感じるのですが、蛭子さんは読者を笑わそうと思って描いていらっしゃるんですか? それとも怖がらせようと思って描いていらっしゃるんですか?

蛭子 そういえばちゃんと考えたことないな~。たぶん笑わせようとしてると思いますけどね。俺ね、嘘つきなの。嘘を描いている。実際にあったことを全然描いてないから。自分でもちょっと、嘘つきだな~って思います。そうしていないと、やっぱり「丁寧に本当のこと描く」ことはやっぱりなんだか恥ずかしくって。自分の姿も見せられないし。だからわりと自分の生活は隠して「仕事はお金を稼ぐということ」だと割り切ってる部分がある。こっちから半分は、ちゃんとお金を稼ぐその時間である。こっちから半分は、そんなにきっちり働かなくても少し余裕を持って働けばいいやっていう軽い感じ。みたいな両方がありますかね(笑)。

— 漫画はそのどちら側にありますか?

蛭子 漫画はそうですね、お金を稼ぐことかな。描かないときはどっかに出て行って、お金をもらう。

— テレビ番組へのご出演だったり?

蛭子 そうですね。テレビに出ることもお金を稼ぐという事かな。基本的に僕はお金をもらうために仕事をしています。

— 蛭子さんの漫画は普段口に出してはいけないような感情、蓋をしておかないといけない深層心理をすごくストレートに描かれていますよね。

蛭子 ほんとに? 自分じゃわかんないね~(笑)。

— はい(笑)。「セックス」という行為が、よく作品の中に出てきますが、普通の人は絶対言えないようなリアルな感情をストレートに表現していらっしゃって、あれは蛭子さんの実体験からくるんでしょうか?

蛭子 いやもうこの歳だし、全然セックスもしないんでね。そう思ってたのかもしれないね。やっぱりその、どうも苦手なんです俺、なかなか集中出来ないし。ちょっともうダメですね~。

— 蛭子さんの漫画は、実は、ストーリーが何重にも重なっているというところに感動します。

蛭子 そうなのかな(笑)。

— 例えば『忘れられた人々』という作品で、豆腐のセールスマンが、とある家庭に営業に飛び込んだら、そこの主婦に誘惑されて、あれよあれよとセックスしてしまう。でもそれは、実はそこの旦那さんが仕掛けた罠で。旦那さんが、「何してくれてるんだよ!」と出てきてセールスマンは刺殺されてしまう。というドラマの裏で、実は貧乏な家族がその一部始終をしめしめと見ていて、「よし!もう豆腐屋は死んだから豆腐を食べていいぞ!」という、まさかの二重構造の大ドラマだったりですとか。

蛭子 あはは(笑)そうだった。すごい覚えてるね~!

— 蛭子さんは、漫画を描かれるときはストーリーをまず考えるんでしょうか?

蛭子 そうですね、ストーリーをまず考えますね。それで、だいたい面白いところを中心にして、描き足していくって感じですかね。でもいつも描くときは必ず、人がびっくりするものを描こうとは思ってる。あとね、僕の昔の作品はほぼ夢なんですよ。夢で見たことを描いてることが多い。だから怖い夢をみたら、バッて飛び上がって描くことが多いような気がする。

— 起きてすぐメモされるんですか?

蛭子 メモします。忘れないように。最近は夢を見ないのが切ない…。全然見なくなっちゃったもんな…。

— 蛭子さんはいろんなところで、すぐ眠ってしまうというお話を伺ったことがあるんですが、それは、蛭子さんは眠りながらでも夢の中でちゃんと、漫画のネタを考えていらっしゃったんですね。

蛭子 たぶんそうでしょうね。そうしないと寝るわけがないもん(笑)。そういえばテレビドラマの本番中にも寝ちゃって、それが面白いからって言って、そっちが採用されたこともあったっけ。

— それはすごいですね。本番中に寝ようと思って、寝ていらっしゃるわけではないと思うので、自然にお芝居に入っていって、眠ってしまうんですかね?

蛭子 うん、実際寝ようと思って寝たことはないよ。採用されてるし、迷惑はかけていませんからね!

「借金は一回もないの。」

— 18歳で東京に上京されたんですか?

蛭子 いや、23歳ですね。大阪万博のときなんで。結構遅かったね。長崎の看板屋で働いてたんだけど。看板の取り付け屋ですね、描く方じゃなくて、取り付ける仕事を5年やってた。それで、ちょっと飽きてしまって。『ガロ』っていう雑誌を見てからかもしれない。『ガロ』が本当に面白かったから、そこに漫画を載せてもらえないかって思って、東京に出たのかな。

— 『ガロ』には、漫画を持ち込んだりしていらっしゃったんですか?

蛭子 よく持ち込んでましたね。なかなか当選しないんで、諦めずに何度も持っていった。そしたら何回目かでやっと通ったんだよな~。あ、『ガロ』は2回目だったか。

— そんなすぐに。すごいです。

蛭子 あれ、みんな、どこで知り合ったのかな……。そこからたぶん、『ガロ』で知り合った人達の口コミで、他のいろんな場所で漫画を描かせてもらえるようになっていったんだと思います。なかなか自力で這い上がっていくのは難しい世界だから。ちょっとでもコネがあったらそういう人達に、声を掛けるだけ掛けましたね。自分から人に声を掛けるのはほんとに苦手だったけど。

— 蛭子さんのガロの中で憧れの作家さんって誰だったんですか?

蛭子 やっぱり、つげ義春さん。すごく憧れた。いちばん好きな作品は『ねじ式』。『ねじ式』を見たときは、もうほんとにびっくりしました。あれは漫画か!? と思ったし。ほんとにちょっと、これはすごいな~って思いました。

— それで『さん式』って漫画が出来たんですね。

蛭子 それは俺の漫画ですね。真似して描いただけ。あれ? それ何に入ってた?

— 全集みたいなやつです。

蛭子 ああ、『蛭子コレクション』だ!これ、ほんとは21冊出る予定だったんですけど、7冊出したところであんまり売れなくて出版社が潰れちゃった。俺のせいかな(笑)。ちょっとショックだったんですよね。

— 『ガロ』で描いていらっしゃるときは、アルバイトをしながら?

蛭子 ちり紙交換のアルバイトです。ちり紙交換、雨の日がいいんですよ。濡れたら重くなるから。重さでお金がもらえるから。濡れたら他の日よりだいたいちょっと重くなる。それでそのままボートレース場行ったりしてたんですよ。ボートレース場に行きつつも、これではいかんと。ちゃんとした職業に就かねばいかんとは、ずっと思ってたんですよ。

— 蛭子さんは、別のお仕事をやりながら漫画を描いていらっしゃった当時、描いても売れるのだろうか? お金にならないのに描かなきゃいけないのか? ですとか。どうして描いているんだろう、みたいに思ったりはされなかったですか?

蛭子 思いましたよ。できれば無料では描きたくはなかったですけどね。仕方がなかった。必ず、描けばお金になるって漫画家になりたかったけど、でもやっぱり、そういう経験をしないと仕事が入ってこないっていうのが、だんだんだんだんわかってくるから。出版社も色々あるし、とにかく僕は、やさしい編集者さんに恵まれたいなって思ってましたね。でも、地元にいるより、東京に来て知り合った人の方が優しい人が多いような気がしました。それで、よく親身にもなってくれた。

— 蛭子さんの素敵なところは、ギャンブルもされますけど、きちんとお仕事されるところですよね。

蛭子 借金は一回もないの。借金したら終わりだと思ってたから。とにかく、人からお金を借りるようになったら、人生は終わると思ってたんで、絶対借りなかったです。そんで貸すのも嫌だったしね。『ガロ』で描いてた頃は、みんな同じ境遇だし、平気で周りがお金を借りにきてたの、「蛭子、ちょっとお金貸してくれ」って。でも、それで、みんなどんどんどんどん落ちていくのを見たから。だからね、そういう姿を見て、これは無駄だと思って、その人たちから逃げるようになった。貸したお金も絶対返ってこないのが嫌だしね。

— ギャンブルはいつから始めたんですか?

蛭子 それはもう、ギャンブルができるようになる歳っていうのがあるんですよ。法律で決まってて。ボートは20歳から、パチンコは18歳から大丈夫なんで。だから17歳の終わりから待ち構えて、18歳になった瞬間に、「よし!18歳なった!」って、学ラン姿で卒業証書を持ったままパチンコ屋に行きました。

— さすがですね(笑)。

蛭子 こっちには証明書がありますから。俺はルールはちゃんと守れるんですよ(笑)。

— 若いころにパチンコに憧れがあったんですか? 

蛭子 すごくあった。早くパチンコしたいパチンコしたいってずっと思ってたな。昔ですけど、パチンコ台自体を作ってましたから。

— 釘を打って「ぱちーん」と弾くやつですか?

蛭子 そうそうそう。『パチンコ』っていうタイトルの漫画も描いたな。タイトルは、『パチンコ』だけど、パチンコ屋に行こうとして全然パチンコ屋に行きつかない男の話。

— 親戚の男性や、邪魔がたくさん入って、全然パチンコ行けないんですよね。あれは実話ですか?

蛭子 実話ではないかな。でも、おんなじようなことはよくあった気がするな~。

肩書きはずっと漫画家でいたい

— これから先、描きたい漫画ってあったりされますか?

蛭子 いや~、ないかな~。

— やり尽くしたって感じでしょうか?

蛭子 やり尽くしてもないんだけどさ、なんか、漫画だけを描いてた時期を過ぎて、テレビにも出だしたんだけど、ギャラがテレビの方が全然いいから。漫画を描くのと両天秤にかけたら、もう絶対的にテレビのほうがいい(笑)。それであんまり描かなくなっちゃった。そしたらすべてなくなっていきそうになってる……。

— 漫画はお金を稼ぐために描いていると仰っていたと思いますが、テレビの方がお金を稼げるようならば、漫画よりテレビの方がいいなって思われたりしますか?

蛭子 そうだね!だってそのほうが効率がいいじゃない?

— あはは(笑)。漫画はそのときは忘れてる感じでしょうか?

蛭子 完全に忘れてる感じ(笑)。

— テレビに出つつも漫画は大事にしているから、お金じゃないって作家さんもたくさんいらっしゃると思うんですけど、蛭子さんはそうじゃない?

蛭子 『ガロ』は、いつ持っていっても載せてくれるんだけど、お金が一銭も出なかったんですよ。だから結局は、お金が必要だし、他の出版社に持ち込みで載せてもらってましたけど、でもなぜか、そういう場合、ほとんどすぐに載せてもらった雑誌自体が消えちゃう。なんでか知らないけど、「はい蛭子さんこれで終わりです」って(笑)。

— せっかくのお金をもらえる連載はすぐ打ち切りになってしまったんですね(笑)。

蛭子 そうなんです。なんでだったのかなあ。

— じゃあ、やはり、『ガロ』にご自分の作風が合ってたってことでしょうか?

蛭子 何人か『ガロ』に合う作風の人はいたんですよね。俺も、その中のひとりだったかもしれないですね。

— 振り返ると『ガロ』に漫画を描いていた時間ってどんな感じだったんでしょうか?

蛭子 それはもう、なるべく面白いストーリーになるように一生懸命考えながら、ちゃんと描いてましたね。一番、一生懸命だった時期かもしれない。

— 『ガロ』って個性的な作家さん方が多いじゃないですか。当時、その中でいちばんになりたいとか蛭子さんの中にありましたか?

蛭子 いや~それは、あったのか、なかったのかも、もう、俺もよくわからない。とにかくめんどくさい作業がすごく嫌だったんですよ。漫画を描くのってめんどくさいから。そういう風に思ってるぐらいだから、だんだん漫画から離れていってたのかもしれないですね。

— お金を稼ぐ仕事と、少し余裕を持ってやる仕事と分けてるって仰ってましたが、蛭子さんにとって、ゆっくりやる仕事というのは、どういうお仕事ですか?

蛭子 例えばまあ、お金が全然もらえないところでも、いくつも描いてきたんです。それは決まっておんなじところですけどね。お金がもらえないから余裕をもってやるって感じかな。お金を稼ぐ仕事という意味では、俺がもし「タレント」のみが職業だったとしたら、全然売れてない人だけどね。でも漫画家ってずっと言い続けたかったんだよね。

— 肩書きはずっと漫画家だけでありたい?

蛭子 そうですね。肩書きは少ない方がいいし、漫画家ですね。文字が少ない方がいい。三文字っていいでしょ。でも恥ずかしいね、正式に漫画家って自分で言うのも。全然漫画描いてないですもん……。こないだも、ちょっとばったり漫画家仲間と銀座で会ったんですよ、それで漫画描いてって言われたんですけど、描く気力が全然なくて……。

— 面倒だからですか? それともアイデアが浮かばないから?

蛭子 ふたつとも。全然ダメだね~。あと、めんどくさいのもあるかな。

— 是非、新作お読みしたいです。今後、描く可能性もありますか?

蛭子 うーん……。みんな言うんですけどね。時々、「展覧会どうですか?」とか誘われるんですよ。根本(敬)さんとかからも。根本さんに、「蛭子さん迷ってるなら、今年は大きい絵を描いてみたらいいと思うよ」とかアドバイスをもらったりもした。

— 大きな絵を描こうかなと思ったりされてるんですか?

蛭子 今はね~、全然思ってないの(小声)めんどくさいな~って。

— じゃあ、もしも、お金をすごくもらえるって言われたら?

蛭子 それならすごく頑張れる! 

「やっぱり俺は、すごく安全な人なんですよ。」

— 蛭子さんは、ずっとお金がいちばん上でやってきたと思いますが、どうしてなんでしょう?

蛭子 俺は、若い時からずっとギャンブルやってきたし。順番で言うと、命、お金かな。死ぬのはすごく怖い。今いちばん怖いのは、誰かの車の後ろに乗ったときに、結構飛ばす人がいるじゃない? それで死ぬのが一番嫌だな~とか思ったりしてる。どこでも寝れてたんだけど、最近、車の中では寝れないの。免許も返納しましたし。免許返納!(笑)。
 
— 素晴らしいですね。

蛭子 だから、やっぱり俺は、すごく安全な人なんですよ。お酒も飲まないし、煙草も吸わないし。

— ギャンブルだけなんですね。

蛭子 それがちょっとね。

— お金がすごく好きになった理由はあるんでしょうか?

蛭子 やっぱりお金があったら、どんどんどんどん挑んでいける、まだこれより稼げる、稼げる、どこまで稼ぐかとかっていうのが楽しいじゃない。稼いでるうちは、うれしかったけど、実際にはずっと負けていってて。

— お仕事ではなく、ギャンブルでのお話なんですね(笑)。ギャンブルで勝ち続けることが楽しくて?

蛭子 そうだったんだけど、実際は負けていくばっかりだね。一億は誰でも負けるよ。でも俺、他の人よりは熱くないと思うの。他の人は負けたら暴れたりする。それに俺は、ここでは、いくら使えるかなと最初からきちんと計算していきますから。一日のうち決めた金額しか使わない。ちゃんと帰りの電車賃も別にしてあるし。

— 蛭子さんは、意外と石橋を叩いて渡るタイプの方なんですね。

蛭子 そうですそうです。

— 蛭子さんにとって、今いちばん楽しい時間ってなんでしょう?

蛭子 やっぱり、飯食う時間ですね。食事がいちばん楽しいですね。

— ちゃんと朝昼晩と召し上がるんですか?

蛭子 そうですね。正確にいかないときもありますけど、だいたいはきちんと食べます。

漫画家生活50年目を迎えて

— 今、漫画家生活何年目でしょう?

蛭子 50年ですかね。いや、でも、漫画描いてるのはその中の3分の1ぐらいかな。

— 漫画家さんとして50年やってきて、漫画ってどういうものでしょう?

蛭子 漫画でみんながいちばん苦労してるのは、絵を描かなくちゃいけないってことだと思うんですけど、その絵がね~、描くのがさ、すっごいめんどくさいんですよね。

— 50年も続けてこられたのにですか?!(笑)。

蛭子 50年経ってもいい方法とか何か見つからないものなのかなって。なんか他の仕事は、イラストだとか。もっと、手早くやってるように思うんですけど。

— 蛭子さんは、アシスタントさんはいらっしゃらない?

蛭子 つけたことないです。お金の問題で。漫画で人を雇うって考えが自分の中に全くなかった。

— 自分で描いた方が早いからでしょうか?

蛭子 自分で描かなければダメだという気持ちがある。なんかちょっとでも人に描いてもらったら、それはもう人の作品だから。でも、チョロチョロっとした一部分、「ちょっと塗ってやろうか?」なんて言われたら、断るのも嫌いなんですよ。やめてくれとは言えない。だってその方が楽だし(笑)。

— 極力、自分の作品なので自分で描くけれど、手伝ってくれる分には助かるのでやってもらっても構わないという矛盾でしょうか?

蛭子 そうですね。人がやってくれたら、楽は楽ってのも、わかってるから。でも、あんまり共同作業自体が好きじゃないんですよね。

— 漫画のことで喧嘩とかしたことはありますか?

蛭子 喧嘩はないですね。絶対しないように心がけてます。喧嘩してもし殺されでもしたらバカみたいじゃない。

— テレビに出ている自分をどう捉えてらっしゃるんですか? 

蛭子 テレビは完全にお金を得るため!

— じゃあ街で「あっ!蛭子さんだ!」って言われるのはあんまり好きじゃないですか?

蛭子 そんなに好きじゃないっていうこともないかな(笑)。

蛭子能収(えびす・よしかず)

1947年(昭和22年)10月21日生まれ。長崎県出身。
1986年劇団東京乾電池公演「台所の灯」より参加した後、TVドラマ、バラエティーにと唯一無二のキャラクターでブレイク。
漫画家として活躍する傍ら、映画監督としても2003年2月26日DVD発売(東芝EMI) 脚本・監督作品映画「諌山節考」、 2007年12月5日DVD発売(ポニーキャニオン)「歌謡曲だよ、人生は~いとしのマックス」などを手掛ける。
近年は太川陽介氏と脱力系名コンビとして(テレビ東京)『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』が好評。シリーズDVDも発売中。